毎年恒例の二日の日帰り帰省。母も兄も元気だった、母が亡くなった父のことばかり話していたのが気にかかる。夫婦仲が悪く、やはり未だに良いことはひとつも言わない。その話題が延々六時間も続くのだから参ってしまった。いつものことだが、何十年も引きずる怒りや恨みを昨日のことのように語るので、黙って聞くしか選択肢がないのだ。話しを聞くのは子供の頃からの慣いでもあるし、母が私に優しい言葉を期待しているのではないことをよく分かっているからだ。娘としては「何十年もいい加減にしてよ」と言いたくなるが、それが酷だということも理解している。私と違って怒りの対処法を知らないのだなと、気の毒にも思うことも多い。母のもともとの性格は明るいし、何よりユーモアの分かるところが素敵だ。けれども、一変した彼女を基本的な性格に戻すのは難しく、怒りと恨みで膨らんだ風船が萎むのを待つしかない。残りの人生を穏やかな気持ちで過ごしてほしいと願うが、そうも行かないようだ。
今日の話しで、唯一心が和んだのは、父方の祖父の話だった。音楽家志望で、田舎で音楽の教師をしていた祖父は兄と私が遊びに行くたびにピアノを教えてくれて、夕刻になると、彼の好きなシューベルトやバッハの曲を弾いてくれた(これはよく覚えている)。初孫の兄と私を喜ばそうと、当時は珍しかった『眠り姫』の飛び出す絵本やら、スイスのホワイト・チョコレートの入手に相当な時間を費やしていたことを、今日初めて知った。
いい思い出、悲しいこと、怒りや恨みは、メリーゴーラウンドの木馬のように起伏を繰り返しながら、決してレールから外れることなく走り続けている。母の胸のうちの止まらないメリーゴーラウンドだ。